パニック症の珍奮闘記

パニック症に贈る笑いに変える生き様

衛さんとのコミュニケーション術

食後、洗い物をしていると必ずやってくる衛さん。一番の友達だが、早口と滑舌の悪さで、話の内容を理解できるのはわずか5%ほどだ。だが、長年の経験で、私はもう慣れっこになっている。衛さんの表情や仕草を頼りに、適当にあいづちを返しながら話を聞く。「そうなのか」「ほんまに」「ありがとう」といった定番のフレーズを使い、彼が満足した表情を浮かべるまで話を続けさせるのが私の役目だ。

 


最後に「また教えて」と言えば、衛さんは嬉しそうにその場を去っていく。一生懸命に話してくれる彼に、内容がわからないからといって無視するわけにはいかない。衛さん専用の翻訳アプリがあれば、と心の中で期待しつつ、今日も彼との絶妙なやり取りを楽しんでいる。

ロビーに佇むオブジェたち

ロビーの入り口に現れるのは、阪神の帽子を深く被り、車椅子に座ったままガラス扉と長時間にらめっこする植田さんだ。元新聞配達員で、30年の間、朝の街を駆け回っていた彼の目は、まるで何かを待っているかのように鋭い。しかし、こちらが声をかけても、微動だにしない。まるでカーネルサンダースのように、植田さんはその場に立ちすくみ、オブジェと化している。

 


その付近には、風呂桶と手荷物を足元に置き、不思議な雰囲気を醸し出す黒田さんがいる。彼女もまた、何かを待っているのか、時が来ると荷物ごと姿を消す。おそらく、昔の生活のルーティンが今でも体に染みついているのだろう。

 


このロビーには、彼らが待ち合わせるべき「何か」が存在しているかのようだ。誰もがその「何か」を感じ取りながら、静かに時間が過ぎていく。

地下への扉と二人の考古学

末永さんの謎めいた行動が日々エスカレートしてきた。彼は相変わらずロビーの床のタイルの線をなぞり続けているが、その範囲はどんどん広がり、昼過ぎから夜遅くまで活動は止まらない。まるで地下に隠された空洞を探知しようとしているかのようだ。何かを探している姿は、ツタンカーメンを発見した考古学者のようだ。

 


不思議なことに、そんな末永さんの行動をいつも注意深く見ていた慶子ちゃんも、静かに折り紙を折りながら何かを悟っているようだ。普段は騒々しい彼女も、この時ばかりは妙に落ち着いている。2人の間に、何か特別な空気が流れているのを感じる。距離が縮まってきているのだ。

 


彼らの行動はますます謎めいているが、もし2人が突然姿を消した時、私はこう伝えるだろう。「彼らは地下への階段を降りたんだ」と。

パン探しの名栄養士、谷口さん

調理中、ふと気が付くとカウンターの前に小柄な谷口さんが立っている。彼女の決まり文句は「パンはここで買えますか?」だ。食堂にパンは置いていないが、お腹が空いているのだろう。目の前には昼食のトレーが並び、彼女はその隙を見て、つまみ食いの機会をうかがっている。

 


実際、彼女がカウンターに来るたびに、何度もつまみ食いを繰り返している。見つけた時には、もぐもぐと口を動かしながら必ず言うのが「味見してました」と、ちょっとした言い訳だ。あまりにも可愛らしいその姿に、こちらも強く怒れない。つまみ食いをしているとはいえ、なんだか憎めない谷口さんだ。

 


一通りのやり取りが終わると、彼女はおぼつかない足取りで去っていく。しかし、私はこう思う。「彼女は食中毒のチェックと、味付けの確認をしてくれているんだ」と。実は私の調理場には、最強の栄養士がいる。それが、つまみ食いの名手、谷口さんなのだ。

仏の微笑み、太田さんの奮闘記

太田さんが食堂に姿を現すと、いつも穏やかな笑顔が広がる。彼がこの施設に入居してから半年ほどだが、すでにその笑顔は「仏の太田さん」として周囲に知られる存在となっている。新人らしい控えめな振る舞いを続ける中、何の因果か、問題児が集まる最奥のテーブルが彼の指定席となっている。

 


彼を取り囲むのは、北海道からの「文句娘」橋本さんと、元祖いちゃもん娘の粂野さん。この2人の間に挟まれ、まるで緩和クッションのような役割を果たしている太田さんは、左耳で橋本さんの文句を、右耳で粂野さんの不満を受け止め、ただ微笑みながら知らぬ顔を決め込んでいる。これだけの文句を毎日浴びながらも、その微笑みを崩さない彼の姿には、まさに神や仏のような耐久力と包容力が感じられる。

 


彼の席はまるで戦場のような環境だが、太田さんはそこでも聞き上手のスキルを発揮し、決して不満を表に出すことはない。その様子を見ていると、「こんな状態が毎日続いて大丈夫なのか?」と心配せずにはいられない。だが、それでも太田さんの笑顔は絶えることなく、彼がこのテーブルの平和を保つ存在であることは明らかだ。仏のような心を持つ太田さんに、私はただ感服するばかりだ。

丸坊主とサムライカットの謎

この施設では、入居者の男性たちが次々と丸坊主になっていく不思議な現象が起こっている。高齢化に伴い、髪の薄さが進行するのは仕方のないことだが、それにしても坊主率が異様に高い。まるで高野山の修行僧が集まっているかのような光景だ。あるいは、何か宗教団体の集まりか、刑務所の一角かとも思える雰囲気さえ漂っている。

 


もちろん、毎日風呂に入れないことや衛生面を考えれば、坊主が合理的な選択なのだろう。しかし、そんな坊主集団の中でひときわ目立つ存在がいる。杉町さんだ。彼は、頭頂部だけをバリカンで刈り、再度と後ろ髪は長めに残している。サムライのような、いや、何か悪魔的な雰囲気すら漂わせているその髪型は、まさに異彩を放っている。

 


この奇妙なカットは、杉町さんが自ら指定しているのだろうか? それとも誰かのいたずらなのか。ロボットのように歩く彼の姿、そしてニコニコとした笑顔が、この世のものとは思えない異次元感を醸し出している。だが、彼は実に穏やかで、周りに不思議な安心感を与えている。もしかすると、杉町さんは私たちに「幸せ」を運んでくる使者なのかもしれない、と最近では思うようになってきた。

稲村最強伝説!

これは、ある名物ヘルパースタッフ、稲村さんの物語だ。彼がこの施設に来てから、もう6~7年は経つだろうか。彼を例えるなら、「山」や「川」のように、そこに在るだけで大きな存在感を放つ自然の一部かもしれない。何よりもまず、言っておかなければならないことがある――彼には悪気は一切ない。

 

ただし、入居者の名前は覚えられない。それどころか、頭文字さえ出てこないほど記憶力に自信がない。もしかしたら、自分の名前すらも怪しいかもしれない。食事の配膳を始めると、彼の独り言が増える。誰の食事から運ぶべきか迷い、その上、飲むお薬のセッティングと戦う羽目になる。見ている側からすれば、その姿はまさに混乱の渦だが、彼なりに頑張っているのだ。

 

幸いにも、周囲にはサポートスタッフがいるため、ギリギリのところで安全が保たれている。入居者からのクレームや怒りは、彼にはまったく通じない。まるで顔色一つ変えず、機械のように仕事をこなし続ける。いや、実際には聞いていないのかもしれない。そんな姿勢にもかかわらず、なぜか彼は多くのクレームに潰されることなく、マイペースを貫き通している。

 

稲村さんは、同僚のスタッフからの不満の声にも全く影響されない。むしろ、新人スタッフに平然と質問をしている姿は、なんとも可愛らしくさえ見える。彼が今日もまた、何事にも動じず仕事をこなすその姿は、まさに「稲村最強伝説」として語り継がれていくことだろう。